少し前になりますが、ザグレブ近郊のヴルボヴェツ(Vrbovec)という小さな町に行ってきました。
日本のガイドブックにはまず載っていないヴルボヴェツ。ザグレブの北東、車で約45分程度の所に位置しています。
ザグレブに住むクロアチア人の友達でさえ「ヴルボヴェツには行ったことがない」なんて人もたくさんいるので、日本人観光客はまず足を運ばない場所です(こんなことを言うのもなんですが、遥々日本からわざわざ観光に行くべきような町ではありません)。
特にめぼしい観光スポットがある町ではありませんが、クロアチアやザグレブ近郊の歴史を学ぶために行ってきました。
ヴルボヴェツって、どんな町?
人口約15000人程度の小さなヴルボヴェツ。
先にも述べたように、特に観光地などではなく、有名なランドマークなどがある町ではないため「ヴルボヴェツってどんな所?」と聞かれても、クロアチア人でさえ答えに困ってしまう人が多いような小さな町です。
そんなヴルボヴェツですが、PIK Vrbovec(ピック・ヴルボヴェッツ。通称PIK)という食肉加工会社があることで知られており「ヴルボヴェツ?えっ、どんな町かだって?・・・行ったこともないし、知らないなあ・・・」というクロアチア人がいたとしてもPIKなら知ってるはず。
PIKは牛肉や豚肉、ハムやソーセージなどの加工肉製品を販売する会社で、クロアチアのスーパーに行くと必ずPIKの商品を目にします。
このように、現代では食肉加工の町として知られるヴルボヴェツですが、かつてはヨーロッパをオスマン=トルコ帝国から守る最前線に位置する町のひとつであり、中世、ヴルボヴェッツ一帯にはいくつもの要塞やお城があったそうです(残念ながらその多くは18世紀の農民一揆で破壊されてしまいました)。
当時、強大な力を持つオスマン・トルコ帝国からヨーロッパ防衛の最前線に立っていたのはオーストリアのハプスグルク家、および同君連合であったハンガリー。当時、クロアチアの内陸部はハプスグルク、ハンガリーの支配下にありました。
(歴史理解のポイントとしては、現在のクロアチア領にあたる土地の多くは1102年から1918年までの約800年間、ハンガリーに従属していました)
そして16世紀から17世紀にかけて、この土地(ヴルボヴェッツやその一帯)はクロアチアの有力貴族であったズリンスキ家により治めされていました。
上の写真はヴルボヴェツの町のシンボルのひとつでもある「ズリンスキーの塔(Kula Zrinski)」。
16世前半、オスマン・トルコ帝国からこの地を防衛するために建てられた、ズリンスキ家のお城の一部であった塔です(お城の一部で現状残っているのはこの塔だけです)。
伝説によると、1621年の6月6日にこの塔の中でペタル・ズリンスキ(Petar Zrinski)が生まれたのだとか。
ですが、史実では1755年の農民一揆により焼失してしまった木製の建物(お城)の中で生まれたと記録されています。
悲劇の英雄 ペタル・ズリンスキ
ところで「ペタル・ズリンスキって、誰?」という方がほとんどではないでしょうか。
日本では、世界史を勉強した方でも「ペタル・ズリンスキ(Petar Zrinski)」について知っている方は稀だと思います。
ですが、ひょっとしたら英雄ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ(Nikola Šubić Zrinski)なら「聞いたことがある!」という方がいるかもしれません。
ニコラ・シュビッチ・ズリンスキについてここでお伝えすると、どんどん話が逸れて長くなってしまうので、今回彼についての説明は省略しますが、ペタル・ズリンスキはニコラ・シュビッチ・ズリンスキの曾孫にあたる人物です。
上でお伝えした通り、ペタル・ズリンスキが生まれたのは1621年の6月6日のこと。
彼の父親はペタルが5歳半を迎えた頃、ハプスブルク軍のキャンプ(現在のブラチスラバ)で亡くなったのですが、ハプスブルクの将軍の策略により毒殺されたと言われています。
早くに父親を亡くしたペタル・ズリンスキですが立派に成長し、伝説的な英雄であるひいおじいさん(ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ)と同様、数々の戦い、特にオスマン・トルコ帝国との戦いで活躍し “štitom kršćanstva i strašilom Turaka”「キリスト教世界の楯、トルコ人の恐怖」と呼ばれるほどになりました。
また優れた軍人でもあったペタルですが、文才にも長けており、詩人として作品を残しています。
1643年にはフランコパン家(クロアチアの貴族)のカタリーナと結婚。4人の子供に恵まれ、順調で幸せな人生を歩んでいました。
ところが、ペタルの人生は、実兄である「ニコラ・ズリンスキ」の死により大きく歯車が狂います(ひいおじいさんの「ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ」と同じ名前なので、ややこしいですが、ペタルには「二コラ」という名のお兄さんがいました)
生前、兄の二コラは、弟ペタルの妻・カタリーナの異母兄弟であるフラン・クルスト・フランコパン伯爵と共に、ある「陰謀」を企てていました。それは後に「マグナート陰謀」と呼ばれる企て。
複雑な歴史的背景を持つマグナート陰謀についてここで詳しくお伝えしようとすると、またかなり脱線してしまうので、次にかなり簡単にまとめてみました。
オーストリアやハンガリー、オスマン帝国など、周辺の大国に翻弄されてきた「クロアチアの歴史」は非常に複雑で、頭がこんがらがってしまいそうになると思いますが、なるべく完結にまとめたつもりですが、簡略化しすぎて、逆にわかりにくかったらごめんなさい💦
(※マグナート陰謀について日本語での情報は少ないですが、詳しく知りたい方はWikipediaにかなり詳細にまとめられているので、ご興味のある方はご覧ください)
マグナート陰謀とは?
ペタル・ズリンスキが生きていた時代のヨーロッパは、絶大な勢力を誇るオスマン・トルコ帝国の脅威との攻防戦真っ只中。
現在のクロアチアの隣国であるハンガリーやボスニア・ヘルツェゴビナなど、クロアチアの東に位置するヨーロッパ国の多くの領地がオスマン・トルコ帝国の手に落ちていました。
マグナート陰謀を理解するためには、クロアチアだけではなくオーストリアやハンガリーの歴史を紐解く必要があるのですが、鍵となるのはペタル・ズリンスキが生まれる約100年前に起きた「モハーチの戦い」。
1526年に起きたこの戦いで、オスマン帝国のスレイマン1世とハンガリー王ラヨシュ2世が対決し、ラヨシュ2世は20歳の若さで戦死。結果的にハンガリーの大部分がオスマン帝国に奪われてしまいます。
ですが、1660年代になると、オーストリア(ハプスブルク家)とハンガリーの連合軍がオスマン帝国に征服されていた地域を取り戻すように。
この時、兄のニコラ・ズリンスキが率いる軍政もハンガリー軍の一員として戦いに参戦しました。
そしてついに1664年のセントゴットハールドの戦いで、オーストリア(ハプスブルク家)とハンガリーの連合軍がオスマン帝国に対して決定的な勝利を収めました。
当然、戦いに勝ったハンガリーの人々、そしてハンガリー軍の一員として戦ったニコラ・ズリンスキたちは「ハンガリーはオスマン帝国の支配から解放される!」と期待しました。
しかし当時、内政問題で手がいっぱいだった当時のハプスブルク家は「オスマン帝国との戦いが泥沼化・長期化することを避けたい」と考え、さっさとオスマン帝国との問題を片づけてしまうために「ヴァシュヴァール和約」と呼ばれるオスマン帝国に有利な条約に調印し、ハンガリーは事実上オスマン帝国に支配されつづける形となってしまったのです。
「自分たちが勝ったのに、どうしてオスマン帝国に有利な条約にハプスブルク家は調印したんだ!?ハプスブルク宮廷は自分たち(ハンガリー)を利用しているだけなんだ!
オスマン帝国との国境、最前線に位置するわれわれ(ハンガリー)にオスマン帝国を食い止めさせて、いざという時は見捨てるつもりなんだ」と、当然ながらハンガリーの貴族たちは憤慨。
ハンガリーと共に戦ったクロアチア人貴族のニコラ・ズリンスキもそのひとりでした。
自分自身、そして自分の大切な兵士たちが命を懸けて戦ったというのに、それをないがしろにするようなハプスブルク家の選択にニコラ・ズリンスキはひどく失望したことでしょう。
また「民は国によって利用されるのではなく、国により保護されるべきだ」と考えた二コラ。
そして、諸外国、特にハプスブルク家の勢力を排除して、(現在のクロアチア北部を含む)ハンガリーを独立させようと計画を始めます。これが後に「マグナート陰謀」の呼ばれる企てです。
ところが、二コラは1664年、イノシシ狩りの最中の「不慮の事故」で、あっけなく急死してしまいます。
二コラの死は「事故死」として処理されますが「実はハプスブルク家の陰謀により、殺されたのではないか・・・」とも言われており、現在でも真相は闇のままです。
こうして突然死してしまった兄二コラの遺志を引継ぎ、弟ペタル・ズリンスキがマグナート陰謀の新たな中心的存在となりました。
その後、結局企てがうまくいかず、ペタルたち陰謀者たちは計画の実行をあきらめ、ハプスブルク家に楯突くこともなく、静かな日々を過ごしていました。
しかし1670年になり、その後も活動を続けてきた一部の陰謀者たちがハプスブルク家のに対する反乱を扇動し、事態は急変します。
陰謀の首謀者とされたペタル・ズリンスキと義弟であるフラン・クスト・フランコパン(ペタルの妻カタリーナの異母兄弟)は捕らえられ、現在のオーストリアのウィーナー・ノイシュタットという町の牢に投獄されます。
1671年4月18日に行われた裁判で、国王(レオポルド1世)を侮辱し国を裏切ったとして、ふたりに「右手と首を切り落とす」死刑判決が言い渡されました。
処刑が行われたのは1671年4月30日。
その前夜、ペタル・ズリンスキとフラン・クスト・フランコパンはそれぞれ、妻に宛てた手紙を書いたのですが、ペタル・ズリンスキが妻カタリーナに宛てた手紙が「最もロマンチックで切ない手紙」として、クロアチア史上に名を残しました。
さて(ペタル・ズリンスキについて、ちょっと知識があった方が、より興味深いと思ったので)ついつい前置きが長くなってしまいましたが、いよいよ本題であるペタル・ズリンスキの内容をお伝えしますね。
愛しい君へ
(↑ クロアチアの国営放送番組でのペタル・ズリンスキの手紙の朗読)
クロアチアはもちろん、英語、ドイツ語どヨーロッパ各国の言葉に翻訳され、今でも多くの人に読み継がれるペタル・ズリンスキの手紙。
原本は古いクロアチア語で書かれているため、現在のクロアチアで一般的に語り継がれているものは現代語訳されたものですが「MOJE DRAGO SERCE(モイェ・ドラゴ・セルツェ)」から始まるペタルの手紙は、350年近く経った今も、多くの人々の心を掴みます。
(クロアチア語の現代語訳版・原文版はこちらのWikipedia(クロアチア語)に掲載されています。ちなみに、ペタルがしたためた手紙の原本はザグレブの大聖堂の宝物殿(非公開)に保管されています)
私がこの手紙について初めて知った時、ある方が朗読して聞かせてくれたのですが、一緒に聞いていた多くのクロアチア人女性が、冒頭の「モイェ・ドラゴ・セルツェ・・・」の一文からウットリ、溜息をついていました。
MOJE DRAGO SERCE(モイェ・ドラゴ・セルツェ)とは英語に訳すと”My dear soul”、日本語なら「愛しい君へ」・・・でしょうか。
日本語訳をネット検索してみましたが、情報が全く出てこなかったので、拙訳ですが、以下に全文をお伝えしますね。
一人称を「私」「僕」と訳すべきなのか、どのような口調にするべきなのか、いろいろ悩みましたが(日本語って、本当に豊かで難しいですね💦)私なりに感じたペタル・ズリンスキの人物像のイメージを踏まえて訳してみました。
完璧な訳ではないかもしれませんが、多くのクロアチア人女性が胸を熱くする「最もロマンチックで切ない手紙」の全体像だけでも掴んでいただけると幸いです。
愛しい君へ
この手紙を読んで、どうか嘆き悲しまないでおくれ。
明日・・・ああ・・・僕の愛しい人・・・君に告げなければならないなんて・・・!
明日の朝10時頃、僕たち・・・僕と君の兄上は首を失うことになる。
今日僕たちは今生の別れを交わした。
そして今、最愛の君に永遠なる許しを請うために、この手紙をしたためている。
これまでに、僕が少しでも君を傷つけたり、怒らせてしまった事があるのなら(よくわかっているつもりだ)、どうか僕を許してほしい。
死の覚悟はできており、恐れはない。
ただ、現世で私を見捨てた全知全能の神が、御慈悲をかけてくださることを願っている。
明日、神のお目にかかることが叶うなら、栄光の御座の前で祈りを捧げ、御慈悲を請おう。
君に、僕たちの息子に、この世に残してゆくあらゆるものに対して、どんな言葉を綴るべきなのか・・・もう僕にはわからない。神の御手に委ねることにしよう。
どうか哀れに思わないでほしい。こうなる他、どうしようもなかったんだ。
1671年4月29日、午後七時。我が人生最後の日、ウィーナー・ノイシュタットにて。
君たちすべて、そして僕たちの娘アウロラ・ヴェロニカに神の祝福がありますように。
(拙訳:小坂井真美)
最愛のカタリーナや子供たちのことを想う、ペタルの切なさと愛情が溢れる手紙。
「どんな言葉を綴るべきなのか・・・もう僕にはわからない」という一文に、ペタルの溢れる想いが詰まっているようです。
手紙を訳しながら「ペタルは一体どんな想いでこれを書いたのだろう?」と、何度も胸に迫るものを感じ、また「人生最後の日に、大切な人に宛てた手紙を書くとしたら・・・自分は何を書くだろう?」と思わず考えてしまいました。
ちなみに、ペタル・ズリンスキとフラン・クスト・フランコパンの処刑後、遺体は長らくウィーナー・ノイシュタットに埋葬されていましたが、1919年4月30にクロアチア、ザグレブの大聖堂に移され、今もそこに眠っています。(ザグレブ大聖堂へお越しの際は、ぜひ上の写真の像を探してみてくださいね)
クロアチアの地位向上、民のために奮闘した結果、謀反の疑いをかけられ誅殺されたペタル・ズリンスキとフラン・クスト・フランコパン。
今でもクロアチアの英雄のひとりとして、人々の記憶に残っています(今では(5クーナ「コイン」ばかりで)日常あまり見かけませんが、5クーナ札の肖像画はペタル・ズリンスキとフラン・クスト・フランコパンです)
人生最後の日、みなさんの大切な人に手紙をしたためるなら何を綴りますか?
(2019年2月15日 小坂井真美)
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