プーラで見逃せない観光スポット6選 + 旅が10倍楽しくなる歴史の豆知識(クロアチア)

プーラには非常に保存状態が良いコロッセオがあります

 

イストラ半島の先端に位置する港町、プーラ。

 

日本で「クロアチアのローマ遺跡の街」といえばスプリットが有名ですが、実はクロアチアで「最も大規模なローマ遺跡」が残されているのはここプーラなのです!

 

プーラは非常に古い歴史を持つ町。人が定住している町として初めて記録されたのは、なんと紀元前10世紀まで遡ると言われています。

 

 

 

またプーラという町の名前の由来は「逃亡者の街」を表す「ポライ」。ギリシア神話の英雄イアソン(イアーソーン)がアルゴー船に乗って「コルキス」という古代グルジアの王国まで金羊毛皮(黄金の羊の毛皮)を求めて冒険した有名な物語がありますが、プーラはその神話に「ポライ」として登場します。

 

というのも、イアソンはコルキスでまんまと金羊毛皮を手に入れるのですが、それを奪い返そうとコルキス軍がアドリア海北部までイアソンをしつこく追ってきます。ですが、イアソンはその追撃を逃げ切り、金羊毛皮を奪い返すことができなかった兵士たちは国に帰ることもできず、ここプーラに集落を作り住み着いたのだと伝えられています。

 

そんなギリシア神話の舞台の一部となったプーラには、古代ローマの遺跡以外にも、ギリシア時代の陶器なども出土しており、ギリシア文化の痕跡も見受けられます。

 

この夏、そんな歴史ロマン溢れるプーラをちょこっと散策してきました。今回はプーラ散策前に知っておくとより観光が楽しくなる歴史の豆知識を交えながら、プーラを訪れたらみなさんに必ず訪れていただきたいおすすめスポットを6つお伝えします。

 

円形競技場

まるで「小さなローマ」のようなクロアチアのプーラ

 

数多くのローマ遺跡が点在するプーラ。あまりにも多すぎて「どこから見学するべき?」と迷ってしまう方もいると思いますが、この町を訪れたら絶対に見逃せないのが円形競技場です。

 

「えっ?円形競技場って、イタリアのローマにあるんじゃないの?」と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、古代ローマ時代に造られた円形競技場は、イタリア以外にもかつてのローマ帝国各地に点在しています。

 

 

ローマ帝国全土に築かれた円形競技場の数は250を超えると言われており、そのうちのひとつがここプーラにあるもの。1世紀、初代ローマ皇帝アウグストゥス(オクタウィアヌス/ 在位 前27-西暦14年)の治世に建設がスタートし、第9代皇帝のウェスパシアヌス(在位 西暦69-79)の治世の頃に完成。約70年もの歳月をかけて造られたと考えられています。

 

ちなみに、ウェスパシアヌス皇帝はあの有名なローマのコロッセオも造った皇帝です。(残念ながらウェスパシアヌス帝自身はローマのコロッセオの完成を見る前に亡くなってしまったそうです)

 

また、話が逸れてしまうので、ここでは詳しく述べませんが、アウグストゥスはAugust(8月)の語源にもなった皇帝で、非常に興味深い人物。「ブルータス、お前もか!」のセリフで有名なカエサルが養父

 

「カエサルの死」(ヴィンチェンツォ・カムッチーニ作)

 

志半ばにして死んでしまった養父カエサルのあとを継いで内乱、アクティウムの海戦を勝ち抜き、地中海世界を統一。帝政ローマ、元首政を創始し、パクス・ロマ―ナ(ローマの平和)を実現した偉大な人物です。プーラを訪れる前にローマの歴史を学んでおくと、街歩きがぐっと楽しくなるはずです!

 

ところで、冒頭で「アウグストゥス皇帝の時に建設がはじまり、ウェスパシアヌス帝の治世に完成した」と述べましたが、アウグストゥスの時代に造られた当初の競技場は現在のものよりずっと小さかったのだとか。

 

ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス

 

ローマの発展と共に人口が増えるにつれ、もっとたくさんの人を収容できる競技場が必要となり、第4代のクラウディウス帝(在位41- 54年)の時代に拡張工事がなされました。

 

その後もウェスパシアヌス帝がさらに拡張工事を行い円形競技場は現在の姿になったのだとか。ちなみに、なんでもウェスパシアヌス帝が拡張工事を行った理由は「プーラにいる愛人を喜ばせたかったから」なのだとか・・・(^^;)!!

 

私自身はウェスパシアヌス帝に対して「あまり目立たない(世界史で広く名が知られていない)皇帝だけれど、財政難のローマを再建した凄腕の人物(※)」というイメージしかなかったので、真偽はともかく、そんなお茶目(?)な一面を知って「ウェスパシアヌス帝も人間くさい一面があるんだな~」と、少しウェスパシアヌス帝に対するイメージが変わりました(笑)

 

(※ウェスパシアヌス帝はネロ帝の治世に大火事に見舞われたローマの再建、そして破綻した財政を再建しました。破綻した財政を再建するため、様々な間接税を設け、緊縮財政を行ったのですが、緊縮財政を行うだけでは市民からの支持を得られないため”アメとムチ”政策の一環として、円形競技場を建設し市民にエンターテイメントの場を提供したのです

 

特に外壁の保存状態が良く、その大きさは世界で6番目に大きい円形競技場です!地上から観るとわかりにくいですが、空から眺めると楕円形をしており、直径は132m×105m。壁の高さは30mある立派な建物。当時は約2万人もの観客を収容していたと考えられています。

 

 

建材として使われている石は石灰岩で、プーラ近辺にあったもので造られました。今、壁のアーチは空洞ですが、ローマ時代には様々な彫刻が飾られていたそうです。

 

ローマ時代、ここでは剣闘をはじめと、民衆を喜ばせるための様々なショー、エンターテイメントが行われていました。

 

ステージが設けられている円形競技場内部

 

しかし、キリスト教の力が強くなり、5世紀頃になると剣闘が禁止されたため、その後は家畜を売買する場所として使用されるように。そして中世になると、本来の使い方がされなくなったばかりか、なんとプーラの街づくりのため(家や教会を建てるため)に観客席の石段など、多くの石材が持ち出されてしまいました・・・!

 

今でもプーラの一部の教会や大聖堂では円形競技場から運ばれてきたものだとされる石材が散見されます。

 

同じくローマ遺跡が残る街、クロアチアのスプリットでも似たような話がありますが、現代の感覚からすると考えられないですよね(^^;

 

現在、プーラの目玉観光スポットである他、野外映画館やコンサート会場としても利用されており、建設から2000年近く経った今でも多くの人にエンターテイメントを提供し続ける場として愛されています。

 

セルギウスの凱旋門

 

数あるプーラのローマ遺跡のなかでも、私はセルギウスの凱旋門が一番好きです。

 

円形競技場と同じく1世紀に建てられ、「金の門」とも呼ばれる立派な凱旋門。今は石がむき出しの状態ですが、当時は表面に黄金に輝く装飾が施されていたことから「金の門」とも呼ばれています。

 

 

この凱旋門はアクティウムの海戦で活躍した3人のセルギウス家の人物を称えるために、この地の有力者であったセルギウス家により1世紀に建てられました。

 

 

(ここに述べると長くなってしまうので、詳しいことはまた割愛してしまいますが、アクティウムの海戦といえば、前述のアウグストゥス(オクタビアヌス)VSプトレマイオス朝のクレオパトラとマルクス・アントニウスの連合軍の戦いとして有名な歴史的海戦!

 

ご存知のとおり、アクティウムの海戦でアントニウスは敗北。アントニウスを失ったクレオパトラはのちに毒蛇に自らを噛ませ自害。そして勝者であるオクタビアヌスは初代ローマ皇帝の座に就き「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を与えられることになります)

 

 

門をよく観察してみると、植物や勝利の女神、戦車競走などの美しい浮き彫りが施されており、門の内側の頭上、最も高いところにはワシが刻まれています(↓)。

 

鳥の王者であるワシはローマ皇帝の象徴、紋章でもあります。あとローマ神話の最高神、ジュピターの象徴もワシですね!

 

 

なお、この門の近くにはある男性の銅像が腰かけるユニークなカフェがあります(↓)。

 

そのカフェの名は「ウリクス」。クロアチア語で「ユリシーズ」を意味します。

 

 

この銅像はアイルランド出身の作家ジェームズ・ジョイス。20世紀の最も重要な作家の1人と称えられる方で、ここにはかつてジョイスが英語を教えていた学校があったことから、彼を偲んでここに銅像が建てられました。

 

ジェームズ・ジョイスの代表作の名が「ユリシーズ」であることから、この名がつけられました。

 

アウグストゥス神殿

 

ローマ時代の公共の広場「フォロ」、現在「フォーラム」と呼ばれる広場に立つ建物の中でひときわ目を引く建物。

 

コリント式の柱をもち、いかにも歴史を感じさせるこの建物は、ローマの神々とアウグストゥス皇帝に捧げられた神殿です。

 

アウグストゥス皇帝は西暦14年に亡くなったのですが、この神殿はアウグストゥス皇帝が存命した紀元前2年から西暦14年の間にかけて建てられたため「アウグストゥス神殿」と呼ばれています。

 

長い時の流れの中で、アウグストゥス神殿は様々な役割を果たしてきました。

 

古代の石碑や石像が展示されています

 

前述のとおり、もとはローマの神々とアウグストゥス皇帝を祀る神殿として使われていましたが、ローマ帝国でキリスト教が国教化されると穀物倉庫として利用されるようになりました。

 

そして、19世紀には石像や石碑などを展示する施設として使われるようになり、第二次世界大戦中の1944年には、なんと連合軍の爆撃により神殿は崩壊してしまいました。

 

戦後の1945年から47年にかけて神殿は再建され、再び古代の石像や石碑などを展示するスペースとして使われています。

 

 

アウグストゥス神殿

入場料:10クーナ

開閉時間:9:00~20:00(※冬季閉鎖の可能性あり)

市庁舎

 

アウグストゥス神殿の隣には、「月の女神ダイアナ」を祀っていたと考えられている神殿もあったそうですが、残念ながらダイアナ神殿のほとんどが中世に取り壊され現存していません。(ただし、後の壁の一部だけ残されています)

 

ダイアナ神殿は中世になると街を造るための建材として使用され壊されてしまい、その跡地には13世紀後半(1296年)にロマネスク風のロッジアが建てられました。

 

プーラがヴェネチア共和国の支配下にあった時代、ロッジアは共和国庁舎として使われ、現在はプーラの市庁舎として使われています。(1697年の修復作業後、現在の姿となりました)

 

アウグストゥス神殿の隣に立つ市庁舎

 

なお、プーラは13世紀~18世紀(1331年から1797年)の約470年間ヴェネチア共和国の支配下にありました。1797年にヴェネチア共和国はナポレオン軍に大敗し崩壊。ヴェネチアが去った後、プーラはオーストリア(ハプスブルク家)の支配下に入ります。

 

1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊するとプーラを含むイストラ半島はイタリア領に。1945年にイタリアが第二次世界大戦の敗戦国となると、プーラは国連の管理下へ置かれ、イストラは占領地として分割統治されることとなりましたが、1947年から旧ユーゴスラビア領に統合されました。

 

そして1991年にクロアチアが旧ユーゴスラビアから独立すると共に、プーラは現在のクロアチア領となりました。

 

聖母被昇天大聖堂(プーラ大聖堂)

 

ここにはかつてローマ時代の神殿がありましたが、4世紀になるとその跡地に教会が建てられ、それが現在の大聖堂の起源となりました。

 

なおローマ帝国でキリスト教が国教化されたのは392年。それまでキリスト教徒たちは迫害され続けてきたのですが、この大聖堂が建つ場所はかつてそんなキリスト教徒たちが集っていた場所だと伝えられています。

 

 

時を経るにつれ、より大きく立派に改築された大聖堂。当初バシリカ様式であった建物は14~15世紀にかけて修復され、17世紀になるとファサードや鐘楼もつけたされ、現在の姿になりました。なお、この改修工事の際にも円形競技場から運び出された石材が使われました。

 

プーラ城塞

今回のプーラ散策ではとにかく時間がなかったので、残念ながら映像がないのですが、あとひとつ、時間があったらみなさんに足を運んでほしいのが「プーラ城塞」と呼ばれる場所。

 

旧市街の真ん中にある小高い丘の上に建つ要塞で、1630年、ヴェネチア共和国時代に築かれました。

 

プーラは地理的にも重要な場所に位置しているため、もともと古代ローマ時代以前から要塞があったと考えられていますが、それはヴェネチア時代も同様。アドリア海北部の海上交通において非常に重要な土地であったため、都市と港を保護するためにこの城塞が築かれました。

 

ちなみに、空から城塞を見ると星の形をしています。

 

現在、城塞はイストラ歴史博物館となっていますが、さすが元城塞!城内にあるかつての見張り台の上からはプーラの街並みを一望することができます

 

プーラにまつわる数々の歴史はとっても面白いのですが、1本の動画に詰め込んでしまうとごちゃごちゃする上、とっても長くなってしまうので、今回は歴史的な知識は最低限にして、景色や見所にフォーカスしますね。

 

もし、みなさんから「プーラの歴史について詳しく動画にしてほしい」というお声が多いようでしたら、また別の機会に動画にまとめてお届けしようかな、と考えています。

 

■プーラ城塞(Kaštel)

 

住所:Gradinski uspon 6, Pula

 

【イストラ歴史博物館情報】

Tel: +385 52 211-566

E-mail: ppmi@ppmi.hr

web: http://www.ppmi.hr/hr

入場料:大人 20クーナ

 

 

なお、プーラのメジャーな観光スポットではありませんが、たまたま通りかかって私が「おぉ!これは!」とちょっとテンションが上がってしまったのは「アグリッピーナの家」と呼ばれる古代ローマ時代の住宅の跡地。

 

アグリッピーナ(小アグリッピーナ)といえば「狂気の皇帝」とも呼ばれたカリグラを兄に持ち、さらに「暴君ネロ」の母でもある人物。息子を皇帝の座に着けるために夫を殺し、最後は自らの息子であるネロが差し向けた近衛兵によって腹を刺されて亡くなった・・・など、数々の強烈なエピソードを持ち合わせる、ローマ史上指折りの悪女と言われる人物・・・。

 

まさかプーラでアグリッピーナの痕跡に触れるとは思ってもいなかったので、見つけた時驚いてしまいました。

 

 

なお、もともとここにはオーストリア帝国時代に建てられた住宅が建っていたそうですが、第二次世界大戦時代、1944年に爆撃で破壊されてしまったのだとか。

 

その場所で1987年から1988年の間に考古学調査が行われた結果、約550㎡の広さの地中から紀元前6世紀からベネチア時代である紀元6世紀に及ぶまで、様々な時代の痕跡が発見されたそうです。

 

左に映っている石像が小アグリッピーナ像だと考えられています

 

なかでも考古学者を驚かせた発掘品がローマ皇帝を模った大理石の像。また大理石で覆われた土台には皇后アグリッピーナ(小アグリッピーナ)の胸像が見つかりました。

 

あくまで仮説ではありますが、クラウディウス皇帝の治世中、フォーラムに面したタベルンのひとつが小さな神殿または皇帝を称えるための部屋として改築されたのではないかと考えられているそうです。

 

この中でプーラに住んだ人々はクラウディウス皇帝やアグリッピーナ、ネロを崇拝するある一種の儀式を行っていたのではないかと考えられています。

 

また、古代ローマ時代、このアグリッピーナの家はフォーラムに面しており、大理石や色鮮やかなフレスコ画などで飾り立てられていました。この中には以外のスペースにも、この近くにある銀行の建物の一部もアグリッピーナの家の建物跡となっているそうです。

 

 

なお、時間があればぜひ立ち寄ってほしいのがプーラの市場。ぶらぶらと歩いてみるだけでもプーラの人々の食文化に触れることができて、とてもおもしろいですよ!

 

市場の様子はYouTube動画(↓)にしているので、ぜひご覧ください♬

 

 

また今回の動画の内容を動画でご覧になりたい方はこちらのYouTube動画をチェックしていただけると嬉しいです(*^^*)

 

以上、みなさんの楽しいプーラ散策のヒントになれば幸いです。

 

(2020年9月29日 小坂井真美)

 

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